転職の年収交渉について調べると、どの記事にも「現年収の10%増が目安」と書かれています。しかしこの「10%」がどこから来た数字なのか、実際に何割の人が達成しているのかまで書いた記事はほとんどありません。厚生労働省「令和6年雇用動向調査」を開くと、転職で賃金が1割以上増加した人は29.4%、逆に1割以上減少した人は21.7%でした。つまり「+10%」は平均値ではなく、上位3割が到達しているラインです。本記事は、この分布を出発点に、年収交渉を「目安」ではなく「勝率」で設計し直すための実務ガイドです。
この記事で得られること
- 転職時の賃金変動の実際の分布(増加・変わらない・減少の割合)と、そこから逆算した現実的な目標設定
- 2025年に起きた「賃上げ転職」の潮目の変化を、公表統計の前年同期比で確認する方法
- 交渉テクニック以前に結果を左右する3つの前提条件(雇用形態・産業・応募ポジション)
- 準備5ステップと、そのまま使える交渉フレーズ(面接・逆質問・メール・エージェント経由)
- 交渉が通らなかったときに切れる代替カードと、入社後に取り返す設計
1. 「+10%」の正体——増える人は4割、1割以上下がる人は2割
まず全体像を数字で押さえます。厚生労働省「令和6年雇用動向調査」によると、転職入職者の賃金変動は次の分布でした(出典:厚生労働省「令和6年雇用動向調査 結果の概況」(2025年8月26日公表))。
転職入職者の賃金変動の分布(令和6年)
| 区分 | 割合 | 前年差 |
|---|---|---|
| 1割以上の増加 | 29.4% | +3.8pt |
| 1割未満の増加 | 11.2% | −0.4pt |
| 増加 合計 | 40.5% | +3.3pt |
| 変わらない | 28.4% | −0.4pt |
| 1割未満の減少 | 7.6% | −1.4pt |
| 1割以上の減少 | 21.7% | −1.7pt |
| 減少 合計 | 29.4% | −3.0pt |
※ 表を読むときの注意点が3つあります。①各項目は四捨五入のため、内訳の和と合計が一致しない場合があります(増加29.4+11.2=40.6に対し合計40.5%など)。②「不明」区分(令和6年は約1.7%)は表に含めていません。③「1割以上の増加 29.4%」と「減少 合計 29.4%」はたまたま同じ数値ですが、まったく別のものです。本記事で「上位3割」と呼んでいるのは前者(1割以上の増加)です。
この表から読み取れることは3つあります。
読み取り1:「+10%」は平均ではなく上位3割のライン
「1割以上の増加」に到達しているのは29.4%です。多くの記事が書く「現年収+10%が目安」は、統計的には約3割の人しか実現していない水準を目安と呼んでいることになります。目標として掲げること自体は妥当ですが、「普通に交渉すれば届く線」ではありません。根拠の準備なしに提示すれば、企業側から見れば上位3割の条件を無条件で要求されている形になります。
読み取り2:「変わらない」が3割近くある
28.4%の人は賃金が変わっていません。転職の4件に1件以上は、年収を動かさずに環境・職務内容だけを変えた転職です。年収交渉を「必ず上げるための行為」と捉えると、この層の存在を見落とします。実務上は「下げない」ことも交渉の成果です。
読み取り3:2割強は1割以上下がっている
1割以上の減少が21.7%あります。上げる交渉と同じくらい、下げ幅を最小化する交渉が必要な人が一定数いるということです。未経験職種への転換、業界を跨ぐ移動、役職を下りる移動では、この層に入る可能性を最初から織り込んでおくほうが交渉が組み立てやすくなります。
長期推移で見ると、2024年は「増加割合が最も高い年」だった
| 年 | 増加 | 減少 | 増加−減少 |
|---|---|---|---|
| 2015年 | 35.6% | 33.5% | +2.1pt |
| 2019年 | 34.2% | 35.9% | −1.7pt |
| 2022年 | 34.9% | 33.9% | +1.0pt |
| 2023年 | 37.2% | 32.4% | +4.8pt |
| 2024年 | 40.5% | 29.4% | +11.1pt |
※ 上表は代表的な年を抜粋したものです(同調査は毎年公表されています)。
2019年は「増加」より「減少」が多い年でした。2024年は増加割合が2015年以降で最も高く、増加と減少の差も+11.1ポイントまで開いています。ここ数年で「転職すると賃金が上がりやすい」という感覚が広がったのは、体感ではなく統計に裏づけられた変化でした。ただし、次章のとおりこの流れは2025年に入って変調しています。
2. 2025年に潮目が変わった——プレミアムの縮小を前年同期比で確認する
厚生労働省は年計に加えて上半期の集計も公表しています。「令和7年上半期雇用動向調査」(出典:厚生労働省「令和7年上半期雇用動向調査 結果の概況」)を年計と並べると、次のようになります。
| 指標 | 令和6年(年計) | 令和7年 上半期 | 差(集計期間が異なるため参考値) |
|---|---|---|---|
| 増加 | 40.5% | 39.4% | −1.1pt |
| うち1割以上の増加 | 29.4% | 26.7% | −2.7pt |
| 変わらない | 28.4% | 25.5% | −2.9pt |
| 減少 | 29.4% | 31.5% | +2.1pt |
| うち1割以上の減少 | 21.7% | 22.0% | +0.3pt |
| 増加−減少 | +11.1pt | +7.9pt | −3.2pt |
ここで比較の基準に注意が必要です。左列は令和6年の「年計」、右列は令和7年の「上半期」であり、集計期間が異なります。同一期間での比較として同調査が明示しているのは、「1割以上の増加」が前年同期比で3.0ポイントの低下(29.7%→26.7%)という点です。増加と減少の差(+11.1pt→+7.9pt)は年計と上半期を並べた参考値であり、同期間比較ではない点にご留意ください。
これは「転職しても上がらなくなった」という意味ではありません。増加が減少を上回る構図自体は続いています。しかし大幅増(1割以上)の出やすさは明確に鈍化しており、2022〜2024年の感覚をそのまま2026年の交渉に持ち込むと、目標値を高く置きすぎる可能性があります。交渉の場では「相場は上がっている」と押すよりも、直近の指標を踏まえた現実的なレンジを提示するほうが、企業側の稟議を通しやすくなります。
IT・エンジニア職はさらに注意が必要
IT系の転職記事の多くは「IT人材は不足しているから強気で良い」と書きます。その根拠としてよく引かれるのが、経済産業省の「2030年に最大約79万人不足」という数字です(出典:経済産業省「IT人材需給に関する調査」(2019年4月公表))。ただしこれは2019年に公表された2030年時点の予測値であり、足元の需給を表す数字ではありません。
足元の実測は別の動きを示しています。厚生労働省「一般職業紹介状況(令和8年6月分)」(出典:厚生労働省「一般職業紹介状況(令和8年6月分)」(2026年7月31日公表))では、有効求人倍率1.18倍・新規求人倍率2.16倍・正社員有効求人倍率1.00倍と全体は堅調な一方、産業別の新規求人(前年同月比)は次のとおりでした。
| 産業 | 新規求人 前年同月比 |
|---|---|
| 全産業 | +3.1% |
| サービス業(他に分類されないもの) | +11.5% |
| 製造業 | +10.4% |
| 宿泊業・飲食サービス業 | +5.4% |
| 教育・学習支援業 | −2.2% |
| 卸売業・小売業 | −2.6% |
| 情報通信業 | −6.4% |
公表されている産業区分のなかで、情報通信業の減少幅が最も大きくなっています。「予測(79万人不足)」と「足元(新規求人−6.4%)」は別の情報であり、交渉の強気度を決めるときは後者を見るべきです。長期の人材不足を理由に強気で押すより、応募先が今まさに採用を急いでいるポジションかどうかを見極めるほうが、実際の交渉では効きます。
3. 交渉の前に結果の大半が決まっている——3つの前提条件
交渉の言い回しを磨く前に、確認すべき前提が3つあります。いずれも公表統計で確認でき、テクニックでは覆せない構造要因です。
前提1:現職の雇用形態が交渉の上限を規定する
令和6年雇用動向調査を就業形態別に見ると、賃金が増加した割合から減少した割合を引いた差は次のとおりです。
| 就業形態 | 増加−減少 |
|---|---|
| 一般労働者間の転職 | +13.1pt |
| うち 雇用期間の定めなし → 定めなし | +16.3pt |
| うち 雇用期間の定めあり | +8.0pt |
| パートタイム労働者間の転職 | +15.4pt |
無期雇用から無期雇用への移動が+16.3ポイントで最も高く、有期契約が絡む移動(+8.0ポイント)はおよそ半分です。有期契約から動く場合は、同じ交渉をしても結果の分布が構造的に不利になります。この場合は年収の絶対額よりも「無期雇用への転換」自体を第一の交渉項目に置いたほうが、生涯賃金では有利になることが多くなります。
前提2:どの産業に応募するかで基準線が2割動く
厚生労働省「令和7年賃金構造基本統計調査」(出典:厚生労働省「令和7年賃金構造基本統計調査 結果の概況」(2026年3月24日公表))の産業別・所定内給与額(男女計)は次のとおりです。
| 産業 | 所定内給与額(月額) |
|---|---|
| 電気・ガス・熱供給・水道業 | 444,000円 |
| 学術研究、専門・技術サービス業 | 440,300円 |
| 金融業、保険業 | 437,000円 |
| 情報通信業 | 406,000円 |
| 教育、学習支援業 | 379,400円 |
| 建設業 | 366,300円 |
| 卸売業、小売業 | 349,100円 |
| 全産業平均 | 340,600円 |
| 製造業 | 330,000円 |
| 医療、福祉 | 315,700円 |
| 運輸業、郵便業 | 312,700円 |
| 宿泊業、飲食サービス業 | 277,200円 |
情報通信業は406,000円で、全産業平均340,600円に対して約19%高い水準です。最上位(444,000円)と最下位(277,200円)の差は1.6倍あります。同じスキルでも応募先の産業が違えば、交渉の起点となる給与テーブルそのものが動きます。交渉の巧拙で動く幅より、産業選択で動く幅のほうが大きいのが実態です。
前提3:年収カーブのどの位置にいるか
同調査の情報通信業・年齢階級別の所定内給与額(男女計)は次のとおりです。
| 年齢階級 | 所定内給与額(月額) | 前年比 |
|---|---|---|
| 〜19歳 | 205,000円 | +2.3% |
| 20〜24歳 | 262,200円 | +5.3% |
| 25〜29歳 | 308,700円 | +7.3% |
| 30〜34歳 | 363,400円 | +3.9% |
| 35〜39歳 | 410,100円 | +4.9% |
| 40〜44歳 | 456,800円 | +3.9% |
| 45〜49歳 | 491,700円 | +3.6% |
| 50〜54歳 | 491,300円 | +1.3% |
| 55〜59歳 | 516,300円 | −0.8% |
25〜29歳が+7.3%と最も伸びており、55〜59歳は−0.8%とマイナスです。若手ほど市場全体の水準が上がっているため、同じ交渉でも追い風の強さが違います。年齢と転職成否の関係については転職の年齢別戦略ガイドで年齢階級別のデータを詳しく扱っていますので、あわせてご確認ください。
4. 年収交渉の事前準備5ステップ
前提を確認したうえで、実際の準備に入ります。順番に意味があります。
ステップ1:相場を「3つのレイヤー」で押さえる
相場は1つの数字ではなく、次の3層で確認すると交渉の根拠として使えます。
| レイヤー | 確認先 | 交渉での使い方 |
|---|---|---|
| 産業水準 | 賃金構造基本統計調査(産業別) | 「この産業の水準では〜」という土台の提示 |
| 年齢・経験水準 | 賃金構造基本統計調査(年齢階級別) | 自分の位置づけの客観化 |
| 職種・スキル水準 | 転職サービスの職種別年収調査、求人票の提示レンジ | 具体的な提示額の根拠 |
民間データを補助的に使う場合は、出典と対象母集団を確認します。たとえばdodaの「平均年収ランキング2025」(2025年12月公表)では、正社員全体の平均年収429万円に対し、技術系(IT/通信)は469万円と報告されています(出典:パーソルキャリア「doda 平均年収ランキング2025」)。民間調査は登録者が母集団のため、公的統計とは性質が異なる点を理解したうえで併用してください。
ステップ2:実績を「金額・件数・期間」に翻訳する
「頑張った」は交渉材料になりません。企業が稟議を通すには、採用担当が社内説明に使える形の情報が必要です。次の型に落とし込みます。
- 金額:削減できたコスト、増やした売上、防いだ損失を数字で
- 件数・規模:担当したプロジェクト数、チーム人数、扱ったユーザー数・トランザクション数
- 期間:どのくらいの期間で達成したか(立ち上げの速さは再現性の証明になります)
- 再現性:同じ成果を応募先の環境でどう出すか、を1〜2文で
4つ目の「再現性」まで書けている応募者は多くありません。前職の実績はあくまで前職の環境で出たものであり、企業が知りたいのは「うちで同じことができるか」です。ここを言語化できると、提示額の根拠が一段強くなります。
ステップ3:応募先の給与テーブルと評価制度を調べる
多くの企業には等級ごとの給与レンジがあります。レンジの上限を超える提示は、交渉の巧拙にかかわらず通りません。求人票の提示レンジ、口コミサイト、面接での質問を組み合わせて、次を確認します。
- 提示レンジの下限・上限(求人票に記載があることが多い)
- 等級の刻みと、1等級上がったときの金額差
- 賞与の算定方式(固定なのか業績連動なのか)と、年収に占める比率
- 昇給・昇格の頻度とタイミング(年1回か半期か)
レンジの上限が見えていれば、「上限に近い額を、根拠つきで狙う」という現実的な設計ができます。上限を超える希望を出すしかない場合は、等級そのものを1つ上で採用してもらう交渉に切り替えます。
ステップ4:目標値とボトムラインを分けて設定する
| 設定する数字 | 意味 | 目安の考え方 |
|---|---|---|
| 目標値 | 根拠をもって提示する額 | 相場3層と応募先レンジの上限から逆算 |
| 着地想定 | 現実的に落ち着くと考える額 | 目標値と現年収の中間帯 |
| ボトムライン | これを下回るなら辞退する額 | 生活費・現職の年収・他社提示から算出 |
ボトムラインを事前に決めておかないと、交渉の場で「いくらでも受けます」という姿勢が透けます。逆に、ボトムラインを決めておけば、下回ったときに落ち着いて辞退の判断ができます。ここで前掲の分布(変わらない28.4%・1割以上の減少21.7%)が効いてきます。着地想定を「現年収と同額」に置くこと自体は、統計的にはごく普通です。
ステップ5:タイミングを設計する
交渉のタイミングについては情報が割れています。「内定前」と書く媒体と「内定後」と書く媒体があり、読む側が混乱しやすい論点です。実務的には次の整理が使いやすいでしょう。
| フェーズ | やること | 注意点 |
|---|---|---|
| 書類・一次面接 | 希望年収は「現年収+レンジ」で幅を持たせて回答 | ここで低い額を言うと上限が固定される |
| 最終面接 | 逆質問で給与テーブル・評価制度を確認 | 金額の押し込みはまだ早い |
| 内定後・オファー面談前 | 根拠を添えて具体額を提示(本命フェーズ) | 企業は採用意思を固めた後なので調整余地が最も大きい |
| オファー承諾後 | 交渉は原則しない | 信頼関係を損ねるリスクが大きい |
転職活動そのものの時期選び(何月に動き始めるか)は年収交渉とは別の論点です。求人が増える時期と選考が長引く時期の関係は転職のタイミング完全ガイドで扱っています。
5. そのまま使える交渉フレーズ
言い回しは「要求」ではなく「確認と相談」の形にすると、関係を壊さずに交渉できます。以下は場面別の型です。数字部分はご自身の状況に置き換えてお使いください。
面接で希望年収を聞かれたとき
「現在は◯◯万円です。御社の求人で拝見した◯◯〜◯◯万円のレンジと、これまでの◯◯(具体的な実績)を踏まえますと、◯◯万円前後を希望しております。ただし等級や評価制度によって考え方も変わると思いますので、御社の基準をうかがったうえで相談させていただければ幸いです。」
ポイントは、金額を言い切らずに「御社の基準をうかがったうえで」と続けることです。この一文があるだけで、後から調整する余地が残ります。
逆質問で給与テーブルを確認するとき
「入社後の評価と処遇についてうかがえますか。等級ごとの給与レンジと、次の等級に上がる際の主な評価項目を教えていただけますと、入社後の目標が立てやすく助かります。」
「給与を上げてほしい」ではなく「入社後の目標を立てたい」という文脈にすると、意欲の表明としても機能します。
提示額が希望に満たなかったとき(メール)
件名:オファー条件のご相談(氏名)
「このたびは内定のご連絡をいただき、誠にありがとうございます。◯◯のミッションに強く共感しており、ぜひご一緒したいと考えております。
つきましては、条件について1点ご相談させてください。ご提示いただいた◯◯万円について、現職の◯◯万円および前職で担当した◯◯(具体的な実績・規模)を踏まえ、◯◯万円をご検討いただくことは可能でしょうか。
もちろん御社の給与制度を第一に考えておりますので、難しい場合は入社後の評価でお示しできればと存じます。ご検討のほど、よろしくお願いいたします。」
この型は3つの要素で構成されています。(1)入社意思を先に明示する、(2)根拠つきで具体額を出す、(3)通らない場合の代替案を自分から示す。3つ目があることで、企業側は「断っても採用できる」と判断でき、交渉のテーブルに乗りやすくなります。
転職エージェント経由の場合
「◯◯万円を希望していますが、根拠は◯◯です。もし先方の給与テーブル上で難しいようであれば、◯◯万円が下限と考えています。先方の等級制度と照らして、どのあたりが現実的か率直に教えていただけますか。」
エージェントには目標値とボトムラインの両方を伝えます。目標値だけ伝えると、届かないと判断された時点で交渉自体が止まることがあります。両方を渡しておけば、間を取る提案をしてもらいやすくなります。
6. 失敗パターンと、通らないときの代替カード
よくある失敗パターン
| 失敗 | 何が起きるか | 回避策 |
|---|---|---|
| 相場を調べずに希望額を出す | レンジ外の額を出して交渉が終わる/低すぎる額で上限が固定される | 相場3層+求人票レンジを事前確認 |
| 「生活費が足りない」を根拠にする | 企業側が社内説明に使えない | 実績・市場水準・レンジ上限で根拠を作る |
| 他社内定を圧力として使う | 信頼を損ね、条件面以外の評価まで下がる | 「比較検討している」事実の共有に留める |
| 承諾後に蒸し返す | 内定取消や入社後の関係悪化のリスク | 承諾前に論点を出し切る |
| 年収の総額だけ見る | 賞与比率・固定残業代の違いで実質手取りが下がる | 基本給・賞与・手当・固定残業時間を分解して比較 |
年収が動かないときに交渉できる項目
給与テーブルの制約で金額が動かない場合でも、交渉できる項目は残っています。実質的な待遇改善につながる順に挙げます。
- 等級・役職:1等級上での採用。以後の昇給の起点が変わるため、長期の効果が最も大きい項目です
- 初回評価のタイミング:通常は入社1年後の評価を、6か月後に前倒ししてもらう
- 賞与の初年度按分:入社初年度の賞与が満額支給されない場合、その分の補填交渉
- 固定残業代の扱い:みなし時間数と超過分の支給ルールを明文化してもらう
- 入社日:現職の賞与支給後に設定して、受け取り損ねを防ぐ
- 働き方:リモート頻度・裁量労働の適用など、金額換算しにくいが生活コストに直結する条件
特に「等級を1つ上で」という交渉は見落とされがちですが、昇給・賞与・退職金のすべての計算基礎が変わるため、単年度の年収を数十万円上げるより効果が長く続きます。
7. IT・SESエンジニアの年収交渉で特に効く材料
IT分野、とりわけSES(システムエンジニアリングサービス)で働くエンジニアの場合、一般的な転職者にはない交渉材料があります。
単価という客観指標が存在する
SESでは、所属企業がクライアントから受け取る月額単価が存在します。単価は市場が決めた自分の価値の目安であり、給与交渉の根拠として使えます。単価と給与の関係、還元率の考え方についてはSESの給与の仕組み解説で詳しく整理しています。職種別・経験年数別の単価水準はSES単価相場の記事および月額単価ガイドをご覧ください。
転職せずに交渉できる余地がある
SESの場合、契約更新のタイミングで単価そのものを見直す交渉が可能です。転職に踏み切る前に、現職での単価交渉を試す選択肢があります。進め方は単価交渉ガイドにまとめています。
面談(商談)の経験が交渉スキルとして機能する
SESエンジニアはクライアント面談を定期的に経験しています。自分の経歴を短時間で説明し、質問に答える訓練を積んでいる分、年収交渉の場でも実績の言語化がしやすい傾向があります。面談での自己紹介の組み立て方はSES面談の準備ガイドが参考になります。
HLTの取り組み
株式会社HLTでは、SESで働くエンジニアのキャリア形成の支援を行っています。一般に、単価と給与の関係が本人に見えていない状態では、年収交渉の根拠を組み立てること自体が難しくなります。市場水準の確認、経歴と実績の棚卸し、次に目指す工程・スキルの整理を一緒に行うことで、単価見直しの準備や上流工程への移行に取り組みやすくなります。
よくある質問(FAQ)
Q1. 年収交渉をすると内定が取り消されることはありますか?
根拠を添えた常識的な範囲の交渉で内定が取り消されるケースは多くありません。ただし、承諾後の蒸し返し、提示レンジを大きく超える要求の繰り返し、他社内定を圧力として使う伝え方は、関係を損ねる可能性があります。「相談」の形式を保ち、通らない場合の代替案を自分から示すことでリスクを下げられます。
Q2. 現年収を正直に伝えるべきですか?
源泉徴収票や給与明細の提出を求められることがあるため、事実と異なる申告は避けてください。現年収は基本給・賞与・手当を分解して伝えると、単純な総額比較より有利に働くことがあります。固定残業代が含まれている場合は、その内訳も明示しておくと後の齟齬を防げます。
Q3. どのくらいの増額を目指すのが現実的ですか?
令和6年雇用動向調査では、1割以上増加した人が29.4%、1割未満の増加が11.2%、変わらないが28.4%でした。「1割以上」は上位約3割の水準です。令和7年上半期では「1割以上の増加」が前年同期比で3.0ポイント低下しており、大幅増の出やすさは鈍化しています。現職の雇用形態、応募先の産業、等級のレンジ上限を踏まえて、目標値・着地想定・ボトムラインの3段階で設計することをおすすめします。
Q4. 未経験の職種に移る場合も交渉できますか?
できますが、前提が変わります。令和6年の調査では1割以上の減少が21.7%あり、職種転換ではこの層に入る可能性が高くなります。この場合は増額よりも「下げ幅の最小化」と「昇給の設計」を交渉の軸に置くほうが実効性があります。具体的には、初回評価の前倒し、等級の据え置き、経験加算の適用などが交渉項目になります。
Q5. 有期契約から転職する場合、不利になりますか?
統計上は差が出ています。令和6年の就業形態別で、雇用期間の定めのない労働者間の転職は増加−減少が+16.3ポイント、雇用期間の定めがある場合は+8.0ポイントでした。およそ半分です。この場合は年収の絶対額よりも、無期雇用への転換自体を第一の交渉項目に置くほうが、生涯賃金では有利になりやすいと考えられます。
Q6. 転職エージェントに任せれば交渉してもらえますか?
エージェントによって関与の度合いが異なります。条件交渉を代行する場合もあれば、企業の給与テーブルに沿った額を伝えるだけの場合もあります。任せきりにせず、目標値とボトムラインの両方、そして根拠となる実績を自分の言葉で渡しておくことが重要です。エージェントが企業に説明するときに使える材料を、あらかじめ整えておくイメージです。
Q7. IT職は「人材不足」なので強気に出て良いのでは?
「2030年に最大約79万人不足」という経済産業省の予測は2019年公表のものであり、足元の需給を示す数字ではありません。厚生労働省「一般職業紹介状況(令和8年6月分)」では、全産業の新規求人が前年同月比+3.1%であるのに対し、情報通信業は−6.4%でした。長期の不足予測と直近の求人動向は分けて考え、応募先が今まさに採用を急いでいるかどうかで強気度を調整することをおすすめします。
まとめ
本記事の要点を5つに整理します。
- 「+10%」は平均ではなく上位3割の水準です。令和6年雇用動向調査では1割以上の増加が29.4%、変わらないが28.4%、1割以上の減少が21.7%でした。
- 2025年に入り、大幅増は出にくくなっています。令和7年上半期の「1割以上の増加」は26.7%で、前年同期比−3.0ポイントです(同期間比較)。なお増加−減少の差(令和6年年計+11.1pt → 令和7年上半期+7.9pt)は集計期間が異なる参考比較です。
- 交渉テクニックより前提条件の影響が大きいです。現職の雇用形態(無期+16.3pt/有期+8.0pt)、応募先の産業(最大1.6倍の差)、年齢カーブ上の位置が、結果の大半を決めます。
- 準備は5ステップ。相場3層の確認 → 実績の数値化と再現性の言語化 → 給与テーブル調査 → 目標値・着地想定・ボトムラインの設定 → タイミング設計(内定後・オファー面談前が本命)。
- 金額が動かないときは項目を変える。等級、初回評価の前倒し、賞与の按分、固定残業代の扱い、入社日、働き方。特に等級の交渉は長期の効果が大きい項目です。
年収交渉は、勇気の問題ではなく準備の問題です。統計で全体像を把握し、自分の実績を企業が社内説明に使える形へ翻訳し、レンジの上限を踏まえた現実的な額を、根拠とともに相談の形で提示する。この手順を踏めば、交渉は関係を損なう行為ではなく、入社後の期待値をすり合わせる建設的な対話になります。
キャリアのご相談について
株式会社HLTでは、ITエンジニアの案件参画とキャリア形成の支援を行っています。年収や単価の考え方、次に目指す工程・スキルの整理について、一緒に状況を整理することができます。現職を続けながらの相談も可能です。詳細はお問い合わせフォーム、募集中のポジションは採用情報をご覧ください。
参考文献・出典
- 厚生労働省「令和6年雇用動向調査 結果の概況」(2025年8月26日公表)https://www.mhlw.go.jp/toukei/itiran/roudou/koyou/doukou/25-2/dl/kekka_gaiyo-03.pdf(最終アクセス:2026年8月12日)
- 厚生労働省「令和7年上半期雇用動向調査 結果の概況」https://www.mhlw.go.jp/toukei/itiran/roudou/koyou/doukou/26-1/dl/kekka_gaiyo-03.pdf(最終アクセス:2026年8月12日)
- 厚生労働省「令和7年賃金構造基本統計調査 結果の概況」(2026年3月24日公表)https://www.mhlw.go.jp/toukei/itiran/roudou/chingin/kouzou/z2025/index.html(最終アクセス:2026年8月12日)
- 厚生労働省「一般職業紹介状況(令和8年6月分)」(2026年7月31日公表)https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_74767.html(最終アクセス:2026年8月12日)
- 経済産業省「IT人材需給に関する調査」(2019年4月公表)https://www.meti.go.jp/policy/it_policy/jinzai/gaiyou.pdf(最終アクセス:2026年8月12日)
- パーソルキャリア「doda 平均年収ランキング2025」(2025年12月1日公表)https://www.persol-career.co.jp/newsroom/news/research/2025/20251201_2022/(最終アクセス:2026年8月12日)
本記事の統計数値は、上記の公表資料に基づいて記載しています。転職の結果は個人の経歴・応募先企業の制度により異なります。掲載データは公表時点のものであり、最新版が公表された場合は数値が変わる可能性があります。









